昭和44年11月15日 朝の御理解



 御神訓一 「天が下に他人ということは、なきものぞ。」

 天が下に他人ということは、なきもの。皆が親身の者、言うなら親類同然。親子、兄弟、または従兄弟、というように従兄弟の切れ端。段々、縁が遠うなって行くに従って、従兄弟は他人の始まりといったような事になる訳ですね。ですから、何がいわば他人の始まりではなくて、親類の始まりという事になるかと。私は今日、御祈念中に、義という事を頂くんです。
 義。ね、忠臣義士の義です。義と義ですね。いわゆる義理人情の義です。どう言う様な事かは、私もさっぱり分からなかったけど。この教典を開かせて頂いたら、この天が下に他人ということは、なきものぞというこの御神訓を頂きます。ですからそのところからお話を聞いて頂きたいと思うんです。赤の他人の者同士が結婚をいたしますと、もう他人ではなくていわゆる親身の者、いわゆる夫婦という事になります。
 その夫婦の交わりから子供そして孫と。それからまた段々色んな従兄弟、はとこになって来る訳でしょう。元はと言えば他人から始まるのである。ははぁなるほどそういう風に頂いてまいりますとですね、やはり天が下に他人という事はなきものという事が分かります。他人から始って夫婦。そこから親子の縁兄弟の縁、というものが生まれて来るんです。ですから、なるほど赤の他人でも、そこに一つの交じわりというものからそういう親子、兄弟と言ったような事になると。
 皆がそうであります。だから、言うなら元は他人という事になる。ならそれをひっくり返してて見ると、元は親類という事になる。そういうような、いわば見地と言うか。そういう考え方って言うか、物の見方という。なるほどそこには、赤の他人という者はこの世の中にはいないのだというような事を、まあ教えとって下さるのじゃないでしょうか。 〔聞き取れない〕、よく分かりませんけれど。ね、
 天地の親神様のおかげでこの世にみんなが出てきたて。というところになると、皆が人間氏子すべてが、これは黒かろうが黄なかろうが、白かろうが人種の差別はない。天地の親神様の目から御覧になれば一子同人。皆がかわいい氏子と。して見ると同胞である。いわゆる、うからやからであるという事になる。そういう高い見地から申しますと、皆兄弟だという事になる。神様と私共は親子という事になる。
 横に繋がる、いわば人間同士は皆兄弟だという事になる。それを私はまた一つの意味から言うと、今日私が申しますように赤の他人から生まれて、子供兄弟親子とか兄弟とかというような事になる。それが段々、段々今度は縁が薄うなって行って、もう従兄弟の切れ端は他人の始りというような事になる。そこで私は今日頂いております、その義という意味が、私はその義という字の解釈はずいぶんあるだろうと思うですね。
 いわば、義を重んずるという事を申しますね。義になって助太刀をするとか、私はあの人とはこういう義理があるからと言ったような、この義という事を使う。それは何かの形で交じわりがあって生まれて来るのが義である、と私は思うんです。渡世人の世界に、赤の他人の者同士が集まって、あれは私の身内であると。私は何々一家の身内だと言った様な事を申します。親分、子分の杯。
 兄弟分の杯と、いわゆる杯を交わすところから、やはり義が生まれる。そして、親子兄弟より以上の、その、やはり親密と言うか。密度を持って付き合いをする。その義の一字の為に、ずいぶん色んな問題が起きておりますね。美談が生まれたり、悲劇が生まれたり致します。というほどしに、義という物は、やはり重んじられて来たわけですね。人情、神より薄いというように言われる現今にでも。
 やはりその義理を、やっぱり重んずる人が多いという事は、まだまだ人間としての、まあ特技という物が地に落ちてない証拠だという風にも思われますね。そこで私はこれは信心で天が下に他人という事はなき事ぞと、と言う様にまあそこの解釈を致します、只今申しますように、世の中には他人というのはないのだと。天地の親神様の目から御覧になりゃ皆がかわいい子供だと。
 して見ると、ならここに繋がる者は皆兄弟だと。いわゆるこれは宗教的な見方ですよね。それからまた、今申しますように、赤の他人が夫婦になって、そこから交わりが起こり、そこから子供が、そして孫がと言うように、そのいわゆる血の繋がりという物が出来る。元をと言えば他人である。だから元をと言えば他人だけれども、他人でも身内になれる、親戚になれれる物を持っておるという事である。
 特に、例えばその義というところからまいりますと、盃を交わすだけで兄弟分になれれる。盃を交わすだけで、親分子分になれれる。そして事実その為に美談が生まれたり、悲劇が生まれたりするほどしの深刻な物になって来る。そこで信心を持って私共が自分の周囲のすべての人達との上にですよ。本当に親類同様、いや親類以上、親子のように、その、思え、またはその人達の為に犠牲になりあい、合うと言うか、または奉仕をし合うと言うか。言うなら助け合いと言う。
 本当の助け合いという事は、私は犠牲になり合う事だと、こう思うんです。奉仕をし合うという事なんです。ですから、やはり犠牲がそこに生まれてくるんです。けれども、その犠牲が、いわばその義が、私は親子、または兄弟以上の物をそこに作っていく訳です。私共が世の中、それこそ皆が親類と、親子のように兄弟のように、言うなら仲良うなれたらどんなに良かろうか。
 そりゃ人間だから感情の動物だから。感情がある時にはそれこそ親子でも兄弟でも、場合には血で血を洗うような事すらがあるけれどもです。やはり肉親であり血がやっぱり血っちゃ汚いもんだなあと。あげん仲ん悪かったけれども、いよいよこれがそのどうちいう時には、やっぱあげん仲良いになられる。やっぱり親子じゃあるな、夫婦じゃあるなという事を申しますようにです。
 自分の周囲の人達との上にでも、そういう何者もないそういう縁の繋がりと言うかね、親子兄弟夫婦といったような、縁の繋がりと言った様な物がです。誰との上にでも感じられるようなおかげを頂いたら、幸せな事だろうとこう思います。他人という物がないですから。問題は幸せに繋がること宗教。教えというのは、すべてが幸せに繋がる事が教えられてるのであるから、ただその宗教的に言う親神様、それに氏子と。だから氏子すべてが兄弟だと分かっただけではいけない。
 赤の他人でも、結婚すりゃ夫婦である。それから生まれて来るのは、もう親子であり。切っても切れない兄弟が横に繋がって行き、孫が縦に繋がって行く。それこそ、目の中に入れても痛くないほどしに、そのいわば、孫だひ孫だという事になると、そう感じられるようになって来るでしょう。元をと言やあ赤の他人です。ですから、そういう在り方に私共の信心によって、実際に自分の周囲の人達との上に、そのような交わりが出来るようになったら、その交わる事から、良いものが生まれて来る。
 交わるところから義が生まれて来る。その義のためには、その人の為に、生命をかけるほどしの事にまでなってくる。いかにその交わるという事が大事かという事が分かります。そこんところが私は何事にも信心になれと仰る、何事にも信心いわゆる真心、いわゆる、信心とは心の尽くし合い。真心の信心信心とは真心の尽くし合い。心の尽くし合い、それが信心だという事になる。
 そういうようなところからで、その前にあります人の身が大事か、わが身が大事か、人もわが身も皆人といったような事になって来る訳ですね。人の身が大事かわが身が大事か、人もわが身もみな人である。そこからいわば親と言うかね、今度は親切の親という事にもなります。わが身のわが身をつねって人の身の痛さを知れと。同病相憐れむとそこに難儀な人がある。気の毒だかわいそうだと言う心情が生まれて来る。
 そこから、信心で言うと、私はお導きといったような事になる。自分が助かって行きよる事を思うたら、その人の苦しんでおられるのが見ておられない。そこから交わりが生まれて来る。そこでそこをお道で言わせてもらうと、導きの親とまで言う。導きの親である。そういうような私は関わり合いという物が段々広がって行く世界。いわゆるどういう事になるでしょうかね。
 合楽合楽一家という事になりゃあ、合楽の身内という事になる。お互いの心の尽くし合いが、本当に兄弟以上親子以上肉親以上の信者同士、信者友達という事になって来る。そういう私はその、親身な物によって繋がって行くという事をです。横の繋がりと言う。神様、そしてここで言うなら私そして皆さん縦にこう繋がって。それが今言う導きの親から段々、なら合楽身内にならせて頂いたら、何かの縁によって私の繋がりが出けた。そして、身内にならせて頂いたら、横に兄弟が沢山おった。
 その兄弟との繋がりが出けて来た。そこには親身も及ばぬ、いわば兄弟愛と言った様な物がです、信心者同士の上にそういう物が頂けて来るようになる。そこに縦横がガッチリ組まれて来る訳である。そういう、縦横がガッチリ組まれた者の、同士の働きというものがです、いよいよ、教団の為にも、社会の為にもお役に立つ、いわゆる御用団体といったような物が生まれて来る訳です。自分一人の助かり。
 最近教団で言われております事の中に、団体の助かり、という事が言われております。ただ、自分さえ助かりゃ良かといったような小さい、ただ自分が、おかげ頂きさえすりゃいいという事ではなくて。団体が助かる、団体がおかげを、団体としての、おかげを受けて行かなきゃならない。金光青年小さい雑誌が毎月まいります。その雑誌の扉に、現教官の言葉が載っておりました。
 そして、やっぱ今その事を取り上げてあります。教団全体の、団体の助かりという事。だから、団体の助かり、団体の助かりという事を言う前に、お互い同士の繋がりを、もっともっと密にしなければならないという意味の事が書いてある。でないとその団体は脆い物になって来る。いわゆる、今日の御理解から言いますと、天が下に他人という事はないのであるから、と言うて世界中の誰彼に、私は兄弟、あんたと兄弟になろう、親子になろうという訳にはいかん。
 そこで、まず自分の周囲、周辺から。まず、自分の様々な利害関係、または様々なところの関係をです、生かして行く働き。そこに、例えばお導きというものがある。そこのお導き。そういう係わり合いと言うか、交わりから、導きの親とまで言うようになり、導かれたらそこにある、横に繋がる信者同士の繋がりというものが、いよいよ密になって。そこに、関係が出けて行く。
 交わりをしていく内に段々それが、親類以上の付き合いと言った様な事にまで進展して来る。そういう私はところからです、いよいよ義が生まれて来る。導かれた義理がある、というようにですね。その、義からどういう事が生まれてくるかと言うと、ね。信心を抜きにしてからは、例えば、もちろん美談もありますけれども、その義の為に悲劇まで生まれて来る。ただしそれは、信心のない者の世界である。
 けれどもそのそういう深い交わりからです、自分を犠牲にしてでも相手を助けて行こうとするところからです、相手も助かり自分も助かって行けれるというのが信心なのです。自分を空しゅうしたからと言うて、自分が死んでしまわんならんという事はない。そこが信心の世界で言う義と、普通の義の違いである。昔のお芝居なんかを見ますと、主従の関係を作っとったばっかりに、自分の子供まで犠牲にして、(?)使うて、助け合うて行くといったような筋のお芝居がいくつもありますよね。
 それはしかし信心のない世界。それほどしの思いという物をもってお互いが犠牲になり合う、奉仕をし合うて行くという所からです、相手も助かりゃ自分も助かるというおかげになって来るのが信心である。ですからそういう私は交わりという物をいよいよ深くして行くところから愈々義によって繋がって行く。その義によって繋がって行く。そういう力がです、合楽教会の信奉者全部の力に合楽の力になって来る。
 その合楽の力が道の上にも有り難い働きを現して行く事が出来るようになって来る。合楽全体が一つの、まあ社会奉仕の為にと言うか。難儀な氏子の取次ぎ助けられて行く事の為に、奉仕する。いわゆる、社会奉仕、奉仕団体という事になって来る。そこには、社会の助かりと同時に、その団体自体の助かりも、私はある訳なのです。だから、その教官が言われるように、団体の助かり。
 その事を、先ず思わなければいけん。そういう風に私は頂いて参りまして、初めて天が下に他人という事はなきものぞという御教えがです。実際の上に行じられ、実際の上にこのように現れて行く。それは、兄弟以上、親子以上の親密さを持ってですね、大きな御用に当たっていけれるというような、おかげになって来ると、こう思うのです。どうぞひとつ、お互い、交わる。それは親ね。
 交わるという事は交際をするという事ですけれども。その交際がです、どこまでも信心になれよという、そこに焦点を置かせてもらう。信心とは、お互いが信じ合う心ですけれども。お互いが信心とは心を尽くし合うという事なの。心を尽くし合う、そこからの交わり。そこから生まれてくるのが、私は有り難い意味での義だと、こう思う。その義からお互いが犠牲になり合う、奉仕し合う。
 いよいよ、そういう、いわば神様の機感に適う働きが出けて来る。天が下に他人という事はなきものぞ。これはただ分かってもらうというだけなら、今申しますように。神様の目からご覧になれば、一子同人皆が兄弟だと。説明だけならこの御教えは大したことはない。赤の他人が結婚すれば夫婦になり、そこから親子が生まれて来る。親子が兄弟がになる。成程考えてみると、赤の他人がそういう事になるのであるから。
 それを引っくり返して言やあ、やはり赤の他人という物はないもんだと、分かっただけでは何もならん。それを、具体的にです。本当に親子だ、兄弟だ。兄弟でも勝たんというぐらいな心情が生まれて来ると。そこから、私はその繋がりと言うか、交わりが生まれて来て、義が生まれて。その義によってです、お互いが、大きな力を現して行こうというような事に精進させて頂いたら。いわば一家を上げてというか。
 合楽一家を上げて社会に奉仕する働き。それには私共一人一人の交わりという物が私共と皆さん、皆さんと皆さん同士の、いわば横縦の繋がりがガッチリ出来て。そして尊い、御用の為にも奉仕する事が出来、教団のいよいよ発展の為にも奉仕する事が出来れる、大きな力がそこから生まれて来るという風に頂きましたら、この御教えはいよいよ有り難い事になって来るのじゃないかと、こう思うのでございます。
   どうぞ。